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総合病院の隣にあるここは、西日がよく入り、時折ひどく眩しい。

いつだか夫が、「広くて綺麗なのに居心地が悪い」ーーーこの言葉は私が夫に対してもよく思うことなのだがーーーと言っていたけれど、その通りだと思う。全てを白で整えたこの部屋と、薬局特有の余所余所しさや、病人しかいない雰囲気は未だに違和感がある。わたしは至って健康だからだ。

 

  指輪をつけるのを忘れてきたことに気付いたのは、仕事の休憩中の時のことだった。枯れ枝のような左手の薬指を見つめながらぼんやりと記憶を辿れば、朝、洗面台に置いたような気がしてくるが どうだっただろう、と思いながら空になった弁当箱ーーーパートのおばさんからハワイ旅行のお土産でもらった、見るからに甘そうなチョコレートも一緒にーーーをしまい休憩室から出た。 

  昔、「結婚指輪を左手の薬指にはめるのは、薬指の下には心臓に繋がる血管が通っているから」だと、聞いたことがあった。大学の頃の、所謂合コンだとかデートだとか、そういった浮ついた話が好きな女の子たちから聞いたはずたったけれど、顔は思い出せない。心臓に繋がる血管が通っている指に指輪をはめたところで何になるというのだろうと当時思っていた。その考えは結婚して、「心臓に繋がる血管が通っている指」に指輪をはめてもらった今でも変わらなかった。指輪なんてただのマークみたいなものだ。そこに精神的な繋がりは無い。そんなもので心臓を縛り愛が誓えるのなら、と考える。もしそんなことが出来たら私たちの間にもまだ愛はあるはずなのに。

そして愛が消えて永遠だけが残ったところで そんなものはもうただの

 

 「地獄よねぇ」

「え?」

「テレビよテレビ。あのタレント夫婦。修羅場目撃で離婚ですって。」

 

   指差す方に顔を向ける。受付から見える待合スペースのテレビを見ると、ワイドショーが有名人の不倫騒動を取り上げていた。帰って来るタイミングが悪かったのねと薬剤師の女が言うので、そうですねと返した。どうでもいい。他人の不倫や浮気の話なんて。

いっそのこと、不倫でもなんでもしてくれていた方が私はよかった。あのタレントだって、わざとタイミングを悪くしたのかもしれない。永遠を捨てる為に。
愛がなくなって、ただの永遠が残った生活なんてただの地獄なのだから。

 

「ま、相川さんのとこの旦那さんはこんな美人がいたら不倫しようなんて思わないだろうし安心ね。はい、この人お願いね。」

 調合の終わった薬を私に渡しながら、悪気の欠片も見当たらない笑顔でそう言う。私は笑うしかなかった。安心。「気掛かりなことがなく、落ち着き安んじること」。私からしたら、あのテレビの中で取り上げられている修羅場の方がよほど安心だと思うと、笑いたい気持ちになった。

お薬手帳の名前を確認する。

「神崎さん。神崎桃さん。」 

  立ち上がってやってきたのは若い女性だった。「今回の料金は3500円ですね。」と言うと、恐ろしいほど白い指が財布の中から5000円を出す。コートが捲れて、痣だらけの手首が露わになっていた。痛み止めが多いのはこのせいだろうな。青、緑、紫。花みたいだと思いながらおつりを渡して、用法容量の説明をする。こちらは食後に二錠。胃を傷つけがちになりますから、空腹時はなるべく避けてくださいね。こちらのお薬は朝と夜に、痛み止めは傷が痛んだ時に服用してください。彼女はひたすら私の指を見ていて、私はそんな彼女の顔を見ていた。顔はひどく疲れているのに、化粧は丁寧にしていて、若くて綺麗な人だと思った。マスカラであげた睫毛が頬に影を落としている。

  痣は、男からだろうなとなんとなく思いながら見送ると、奥から薬剤師の女が驚いたような顔をして出てきて、私の手のひらに指輪を乗せた。ダイヤモンドの乗った、細いシルバーの指輪は間違いなく私のものだった。

 

「落としちゃダメでしょー、あー驚いた。」

「やだ、どこにありました?」

「デスクの下よ。キラキラしてるから何かと思ったら。」

「すみません。ずっとつけている気でいたのになぁ。」

 

滑らかに嘘をついて指輪をはめる。

いつのまにかサイズが合わなくなったそれは、ダイヤモンドが私の薬指のまわりをくるくると回って不恰好だった。思わず笑ってしまう。なんてみっともない。いつの間にか私の指がやせ細ってしまったことも、どこに忘れたのか思いだせなかったことも、嘘をつくことも忘れていたのではなくて落としていたことも、全てがみっともない。

 

「結婚指輪を左手の薬指にはめるのは、薬指の下に心臓に繋がる血管が通っているからなんだって」

顔も思い出せない同級生の言葉を思い出す。

 

西日が眩しい。時計の針は、もうすぐ15時30分を指そうとしていた。