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「お客様がお掛けになった電話番号は、電波が届かない場所にあるか、電源が入っていないため、掛かりません」

 

軽いため息をついて、手に持った診察券を手帳に挟む。拾わなくても良かったかもしれないと思いながら。

仕事が終わってから駐車場に向かうまでの間に拾ったそれは間違いなくあの時うちに薬をもらいにきた人物の名前だったものだから、そのままその場に落としておくのも気が引けてしまったのだ。触れてしまったから。一度手に取ってしまったものを、少なくとも自分から手放すことは出来ない。たとえばそれが、がらくただったとしても、あるべきところに返すか、持ち続けなければならないと思ってしまう。

この診察券は、あるべきところに返すものだ。また後で掛け直そう。そう思い携帯をキッチンのカウンターに置いて冷蔵庫の中から緑色の壜を取り出す。待ち受け画面の時計は、水曜日の17:00を指すところだ。もうすぐ圭吾が帰って来るから夕飯の支度をしなければいけない。

薄いグラスになみなみと炭酸水を注ぎ、一口飲んで捨てた。 もう炭酸はほとんどはいっていなかった。丁度私たちの愛みたいに、情けない後味だけが残る。

 

なのに、今日も私と圭吾は完璧だった。

 

決まった時間に帰って来る圭吾を出迎えて、彼が着替えてテーブルに着く頃には夕飯の支度は整っている。「今日はどうだったの?」「うん、普通だよ。」「そう。」 にこやかに交わされる無感情の会話の後ろで、流しっぱなしのクラシックが聴こえる。ラストシーンみたいな曲だ。圭吾はどうしてかこういう曲ばかりを好んでいる。それでも、かんぺきだと思えた。少なくとも、他の人からしたらかんぺきだろう。私が変なことを口走らない限り、私たち夫婦は「欠点がまったくない」のだ。

 

「そう言えば、今日指輪を落としたのよ」

 

わざと思い出したように口を開き、ほら、と左手の甲を見せる。指輪についたダイヤは重さで手のひらの方へと回ってしまっていて見えなくなっていた。

 

「サイズが合わなくなっちゃったみたいで、不恰好でしょう。」

「ああ」

 

そんなにみっともないもの外してしまえば。

小さく切った肉の欠片を口にしながら圭吾は呟いた。想像したよりも、ずっと軽い声で。「みっともないって」。みっともないって、そんな、ひどいなぁもう。指輪なんて、幾らでもサイズの直しが出来るよとか、いつのまにかそんなに痩せちゃったんだねとか、俺なんか逆にきつくなっちゃったよとか、もう結婚して七年も経ったんだねとか、最近忙しくてなかなか一緒に出掛けられなくてごめんねとか、そういえば薫髪の毛切ったよねとか、 ねえ、「そうね、外してしまってもいいかもしれないわ。」

 

圭吾と同じくらいの声の質量でそう答える。なんの棘もない、丸い声。完璧なトーン。名演技と言っても過言ではないかもしれない。

予想していた返答と予想していた自分の感情と、それを覆す私の返答は完璧そのものだ。私は自分の傷口を抉り広げることが好きだ。私は何度もこういうことを繰り返す。傷つき続ける方が安心だから。

愛のない永遠。傷つき続けるほうが安心な地獄。圭吾は、私から離れていくことを許してくれなければ、自分から離れていくこともしなかった。私は捨ててもられることを待っている。または決定的瞬間に居合わせられることを望んでいる。それが無い限りは捨てられないし持ち続けなければならないのだ。それに、彼も自分からは手放せないのかもしれない。そうと思うと憐れみで目が綻ぶ。そういう愛情なのかしら。かわいそうな人。

私は微笑み、圭吾の方へと歩み寄る。

 

「圭吾」

「愛してるわ。おやすみなさい。」 

 

圭吾は何も言わなかった。もうクラシックは聴こえてこない。

 

一人部屋の寝室に入るとタイミングで携帯が震えた。番号を見ると、夕方に私から掛けた番号だった。丁寧に折り返してもらえるとは、と驚きながら手にコーヒーを持ちベランダに出る。12月間近の突き刺すような寒さが頬を掠めた。

コーヒーの湯気が暗闇に溶けていく。

 

「はい、相川です。」

「…もしもし…?」

 

声の色は喩えるとダスティローズ。

頭の端で、あの時見た腕の鮮やかさを思い出していた。