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「では、飲み薬と痛み止めを処方しておきますので、一週間経っても良くならないようでしたらまた。」
「はい。あの先生、私旅行を控えているので、少し多めにお薬を出していただけますか?」
「わかりました。無理なさらないようにしてください。」
「ありがとうございます。」
病院は清潔だ、と桃は思う。消毒のにおいとカーテンの薄緑。私は美しいものと清潔なものが好きだ。美しいものは大抵、人の手垢でべたべたに汚されていて、だからこそ美しいのだが、私はその反対側で清潔を愛している。正しさや優しさや愛情は、度を越えるとときどき恐ろしいのだが、清潔過ぎて困ることは何もない。こういう場所は安全だ。お医者様や看護婦は丁寧だし、お仕事の範囲内で私に優しい。そしてあのひとたちは私を愛してはいないだろう。さらさらと冷たいこのカーテンが私を愛していないように。だから病院はとても安全なところ。
安全、危険や災害によって「そこなわれる」恐れがない安らかな状態。
今日私がついた嘘も安全だっただろうか。「階段から落ちてしまって、その時にぶつけたみたいなんです。」「私旅行を控えていて、」。
今日ここへ来てお医者様に嘘なんてつかなくちゃならなかったのは、「恐るべき度を越えた愛情」のせいだった。でも、少なくとも愛情として与えられた痛みならば、と私はいつも考える。愛情として享受するしかなす術はないわ。
「神崎さん、神崎桃さん。」
「はい。」
立ち上がるとやっぱり傷は痛んだが、体の外にできる傷は見てわかるし、人にもすぐわかって貰えるから楽ちんだと思う。それに比べて心はなんてわかりにくいのだろう。どうして手の施しようもないところがいつまでも炎症を起こすのだろう。昨晩も理司は、私の言うことが何一つわからなかったようだ。
「憎んでるんだろ、俺のこと。」
寝室のベッドで私のほうを見ないままそう言ったので、私は最初その言葉が誰に向けられたものなのかわからなかった。
「そうね。でも、愛してるんだとも思うわ。」
私にもよくわからないけど、という言葉は辛うじて飲み込む。
「そんなわけないだろ。」
「そんなわけなくないと思う。」
「男に殴られてたのしいか?」
この男はときどき私に手を出す。目を見てきちんと話し合うことすらままならないというのに。違う、話し合うことがこわいから殴るのだということを、私はこの男から学んだ。
「楽しくないわ。でも、憎むって愛していなきゃできないもの。」
優しく肩に触れながら答えるが、理司はもう返事をしない。
「そういうことをたとえあなたがわからなくても、私はそう思ってるの。だから安心して。」
私の口から放たれた言葉は行き場もなく宙を漂って、暗くて冷たい部屋の中で見えなくなっていった。理司は一度もこっちを見なかった。
代金を払い、処方箋を頂いて病院の隣にある薬局に入る。こういう薬局は、どこもそうなのか日当たりが良くてあかるい。処方箋を渡して、安いチョコレートみたいな色の長椅子に座り、携帯電話の電源を入れる。届いていたメールを確認しようとしたとき、名前を呼ばれた。メールの差出人は見当がつく。理司は電話しかかけてこないから。
「こちらのお薬は朝と夜に、痛み止めは傷が痛んだ時に服用してください。」
用法容量を指さしている細い指。大人の女のひとの手は美しい。「触っても危なくありません」、と心の中で呟く。大人の男の人の手は間違いなく、「触るな危険」だ、と思ったらすこし微笑んでしまった。
お会計を済ませて外に出ると冷たい風が吹いていた。さっき出てきた薬局から、女のひとたちの声がする。冬のにおい。もうすぐ十二月になる。寒さなんて感じないみたいな顔をして笑っている子供たちとすれ違う。「桃ちゃん。会いたいよ。空いてる日、連絡ください。」というメールを確認して、「水曜日にしましょう。いつもの時間に」と返信をする。そのあと、2件のメールを削除する。送られてきたものと、送ったものを。
私は近頃、嘘ばかりついている。