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よい大人だった。 

それが、桃が薫に対して抱いた感想だった。きちんと、途中で止まったりすることなく大きくなったひとだ。そういう人は少ないと桃は思っている。正直だとか不器用だとかそういうものを魅力と呼べるのは子供の特権で、あとはもう、ずる賢く生きていかなければいけないから。私もそれなりに考えた。頭がよくなければ無意識に人を傷つける。それは、意識的に傷つけるよりもずっとひどいということを。少なくとも薫には、無意識に人を傷つける鈍さはない。安全だわ。

雨に濡れてしまうからと家の近くまで送ってもらった。それなのに足元と肩はびしょ濡れだ。

ため息をつきながらロックを解除してエントランスに入る。ここにはいつも花瓶だけが置いてある。花はない。それを見るたびに桃は、心がぞっとする。

そして多分ーーー。エレベーターに乗り込み6と閉じるのボタンを押す。

あの人は私の痣に気がついている。男から受けた傷は、ある種の人から見たらきっとすぐにわかるだろう。度を超えた愛情をいまも注がれ続けている人か、かつて注いでもらったことがある人。または、自分自身が注いでいた人。

家に帰って晩御飯の支度をし、理司の帰りを待った。仕事でトラブルがあったのか、帰ってくるなり彼は玄関で私の頬を打った。

頬を打たれた時、私は今日薫に触られた「安全」な指の感触を思い出していた。優しかった。母親の手とも、男の人の手とも全く違った。あんなに、いとも簡単に、他人に触れられると思っていなかった。手を伸ばせば触れられる距離に生きているのだ。私が手を伸ばさないだけで。

もう一度会いたい、と思ったら、痛みはすっと消えて、なぜか少しだけ涙が滲んだ。誰も見てくれないのに。

服を着替えてきた理司が「ごめん。」と私を抱き上げた。今日のことは何一つ話すつもりはない。私はきっと、このひとに秘密を作る方がいいのだ。多少の後ろめたさがあれば、私は理司に優しくできる。





水曜日。私は朝起きて、今日の予定を頭の中に浮かべる。まずは理司を起こしてスーツを持ってくる。二人とも朝食はほとんど食べないので、お湯を沸かしてコーヒーと紅茶を淹れる。軽く化粧をして送り出す。そのあときちんと身支度をして、10時半に家を出る。冬は洗濯物が少ないから、昨日の分は干してから出られるだろう。

 

「こんにちは。」

マンションのエントランスで304号室を押してロックを開けてもらう。エレベーターのなかは趣味の悪い緑色のフェルトが貼られている。ドアの前まで来てもう一度インターホンを押すと、「おはよう。」と春都が出てきた。くせ毛なのかパーマなのかふわふわしている茶色の髪の毛と捨てられた子犬みたいなくりくりの目が大学生っぽい。3つ下のこの男の子はかつてアルバイトしていた塾の生徒だった。

「来るの遅いから俺ごはん作っちゃったよ。」

「そうなの、ありがとう。」

「ほんとは桃ちゃんと一緒に作りたかったんだけどなー。」

私のコートを脱がせてくれながら言う。この子は本当に安全だわ。

玄関で突っ立ったままの私をかるく抱きしめてそのまま暖かい部屋まで運び、ソファーに座らせたあと、ふと何かに気付いたような顔をして体を少し離して、

「ねえ、前から思ってたんだけどさ、桃ちゃんは女の子だしまだまだ若いのに、やきもち妬いたりほかの女の子と会うのが嫌だって言わないの?隠してるの?ほんとうに思ってないの?」

「諦めてるの。」

首を傾げる春都の髪を指で梳かしながら、

「私がたとえば春都くんのことを本当に好きになって、好きでいようと決心したら、そしたらもう私の持ってる期待とか願望を諦めるしかないと思うの。こんなはずじゃなかったっていちいち傷ついていられないでしょ?」

「直してって、私だけ見てって言ってくれないの?」

「言われたいの?」

春都は人懐っこく笑って、いつも通りのかるさで、

「桃ちゃんにだったら。」

と言う。私もすこし呆れて笑ってしまう。ほら、安全だ。

 

「桃ちゃんのそういうところが俺のお気に入りなんだなー、可愛い女の子はすきだけど、押し付けられるのは嫌いだもん。」

私の首に手をまわしてキスをする。いつかこの子も知る時が来るだろう。行き場のない、持て余すしかなくなった感情を、誰彼構わず押し付けてしまうような、雑な愛情を。理司の愛情は生真面目過ぎるのだ。私には持ちきれない。

 

「わかったなら私たちは、おとなしくセックスだけしていましょう。」

 

17時には家に帰らないと。今は12時半。せっかくご飯を作ってくれたなら食べなきゃ。終わったあとそのまま眠ってしまわないように気をつけなきゃ。頭で逆算していると春都くんが耳元で、「桃ちゃんって、絶対早死にするタイプだよね。綺麗だし。なんか今、そう思っちゃった。」と言った。