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あとすこししたら理司が帰ってくるはずだ、と思いながら鍋の火を止める。

エプロンをほどいて洗濯機に放り込み、(もっとも理司が家にいるときにはものを放るようなことはしないが)、洗面所で軽く化粧を直す。
 
 
「理司くんは今までとても優しかったわ。」
 
一緒に生活を始めて、初めて殴られたとき私は泣きながら抗議した。好きな男から殴られた経験なんてなかったから。私は愛されていると思っていたから。理司は「好きだからこわいんだよ」とよく怒鳴るが、私にはあの頃その言葉が理解できなかった。
 
そして暴力が日常茶飯事になり、感情的になって理司を責めたりすることも面倒になった頃、あれは夏の夕方だった、私はあの日の色や匂いをいつも思い出すのだが、
 
「過去はずっと変わらずに綺麗なままだって思ってたけど、だから大切だったけど、もう前と同じようには見えなくなっちゃったの。」
 
と出て行こうとする理司の背中に向かって言った。
 
「たぶん、私たちの思い出はわたしたちが二人で違うものにしちゃったのね。」
 
誰もいなくなった、西日の当たるこの部屋で、私はひとりつぶやいた。
ひとりきりになると涙はすぐに止まる。私にとって涙は、悲しいときに出るものではなく、悲しんでいることを訴えるために出るものなのだ。そして時々、事務的に、例えば男の自慰みたいに、無理やり泣く。今月分の涙を棺に納めるように。そういう無駄のない涙の使い方を、私は小さな頃から知っていたような気がする。
 
二人で夕食を済ませて、桃はいま食器を洗っている。生活というのは生臭い。二人でいると、いくら洗っても取れない汚れがそこかしこにこびりついているような気がする。
 
「桃。」
 
読んでいる新聞から顔を上げずに理司は私を呼んだ。
私はシンクを軽く流して理司の隣に座る。
 
「なあに?」
私のほう、と言っても脇腹のあたりをチラッと見て、そのあと、結婚、と呟いた。
私たちは結婚するつもりでいた。少なくとも理司はそのつもりでいた。でも、それを考えているタイミングで理司の母親が体調を悪くして、いまも入院している。私のほうは両親が離婚していて、母親は「あまり遠くで結婚しないでほしいわ」と言うので、双方が行き詰まったままなのだ。
 
「理司くんのお母さまが安定しないままでは、決められないんじゃないの?」
「あんな母親どうでもいいんだよ、親父ががたがた言ってるだけで。待ってたらいつまでも結婚できないだろ。」
 
それはそうだけど、と思って黙っていると、理司は持っていた新聞を乱暴に床に放り、「俺は桃と結婚したいんだよ。桃はちがうの?」と言いながらつよい力で肩を掴んだ。
「ちがわないわ。」
「だったらなんで。」
間髪入れずに理司が私を責める。
「桃を見てても、僕のことがすきで、だから結婚したいって、そういう熱意みたいなものが伝わってこないんだよ。」
熱意などという大それたものを持って生きていたことなど私にはなかった。傷つくことも、間違うことも、生きている以上避けられない、いくら熱意があっても、流れには逆らえない。
「ごめんなさい。」
というと理司は私の脚を蹴って自室に入っていった。
理司に対して、やり返したり復讐したりしたいという気持ちは全く芽生えない。蹴られたあとに私を見つめる理司の顔を見ると、申し訳なくなるのは何故か私なのだ。きっと私は手こそ上げないものの、言葉とか、表情とか、現象とか、そういうもので少しずつ理司を殴っているのだろう。テーブルに飾ってある冷たい色の花や、洗剤の匂いのシーツが、理司を傷つけているのはどこかでわかっていた。私のほうがひどいのかもしれない。だって。理司が言うには理司のそれは、愛情なんだもの。
体には体で、愛には愛でやり返さなければフェアじゃない。殴り合えたらきっと私たちはもうすこし楽になれるのに。それができない。
 
 
帰ってきてからずっと電源をオフにしていた携帯電話を開くと、登録していない番号から何件か着信があった。
不審に思いながらも掛け直す。
 
「もしもし。」
女の人の声。私より年齢は少し上だろう。日が沈んだあとの空みたいな声だ、と思った。物悲しい。
「…もしもし…?あの、先程何度もお電話いただいたのですが。ごめんなさい、電源を切っていて。」
「こちらこそ。突然ごめんなさいね。私、山本病院附属の薬局の者です。あなたの診察券を帰り道に拾ったものだから。」
「…ごめんなさい、気づかなかったです。ありがとうございました。明日にでも、薬局に受け取りに行ってもいいですか?」
携帯電話を取り出すときだろうか。バッグを肩にかけ直したときだろうか。注意深く生きているつもりなのにな、と思うと情けなかった。
「そうじゃなくって、 」
「え?」
「どこかでお茶でも出来たらとおもうんだけれど。住所がうしろに書いてあったから分かるんだけど、あなたうちの薬局からは少し遠いところに住んでるわよね。私もそっちのほうに家があるの。だから。」
「すみません、お手数おかけしてしまって。私は、土曜と日曜以外は特に何もないです。」
「そう。そしたら、月曜日はどうかしら。最寄りの駅まで迎えに行くわ。」
 
 
 
あいかわかおる、と名乗るその薬局の女と、私は会うことになった。いたずらではないかとバッグを確認すると、診察券はきちんとなくなっていた。
かおるってどんな字を書くんだろう。私が指に見とれたあの人かしら。
 
 
そして不思議なことに、私はなぜこのことを一言も、理司に言えないんだろう。