6

よい大人だった。 

それが、桃が薫に対して抱いた感想だった。きちんと、途中で止まったりすることなく大きくなったひとだ。そういう人は少ないと桃は思っている。正直だとか不器用だとかそういうものを魅力と呼べるのは子供の特権で、あとはもう、ずる賢く生きていかなければいけないから。私もそれなりに考えた。頭がよくなければ無意識に人を傷つける。それは、意識的に傷つけるよりもずっとひどいということを。少なくとも薫には、無意識に人を傷つける鈍さはない。安全だわ。

雨に濡れてしまうからと家の近くまで送ってもらった。それなのに足元と肩はびしょ濡れだ。

ため息をつきながらロックを解除してエントランスに入る。ここにはいつも花瓶だけが置いてある。花はない。それを見るたびに桃は、心がぞっとする。

そして多分ーーー。エレベーターに乗り込み6と閉じるのボタンを押す。

あの人は私の痣に気がついている。男から受けた傷は、ある種の人から見たらきっとすぐにわかるだろう。度を超えた愛情をいまも注がれ続けている人か、かつて注いでもらったことがある人。または、自分自身が注いでいた人。

家に帰って晩御飯の支度をし、理司の帰りを待った。仕事でトラブルがあったのか、帰ってくるなり彼は玄関で私の頬を打った。

頬を打たれた時、私は今日薫に触られた「安全」な指の感触を思い出していた。優しかった。母親の手とも、男の人の手とも全く違った。あんなに、いとも簡単に、他人に触れられると思っていなかった。手を伸ばせば触れられる距離に生きているのだ。私が手を伸ばさないだけで。

もう一度会いたい、と思ったら、痛みはすっと消えて、なぜか少しだけ涙が滲んだ。誰も見てくれないのに。

服を着替えてきた理司が「ごめん。」と私を抱き上げた。今日のことは何一つ話すつもりはない。私はきっと、このひとに秘密を作る方がいいのだ。多少の後ろめたさがあれば、私は理司に優しくできる。





水曜日。私は朝起きて、今日の予定を頭の中に浮かべる。まずは理司を起こしてスーツを持ってくる。二人とも朝食はほとんど食べないので、お湯を沸かしてコーヒーと紅茶を淹れる。軽く化粧をして送り出す。そのあときちんと身支度をして、10時半に家を出る。冬は洗濯物が少ないから、昨日の分は干してから出られるだろう。

 

「こんにちは。」

マンションのエントランスで304号室を押してロックを開けてもらう。エレベーターのなかは趣味の悪い緑色のフェルトが貼られている。ドアの前まで来てもう一度インターホンを押すと、「おはよう。」と春都が出てきた。くせ毛なのかパーマなのかふわふわしている茶色の髪の毛と捨てられた子犬みたいなくりくりの目が大学生っぽい。3つ下のこの男の子はかつてアルバイトしていた塾の生徒だった。

「来るの遅いから俺ごはん作っちゃったよ。」

「そうなの、ありがとう。」

「ほんとは桃ちゃんと一緒に作りたかったんだけどなー。」

私のコートを脱がせてくれながら言う。この子は本当に安全だわ。

玄関で突っ立ったままの私をかるく抱きしめてそのまま暖かい部屋まで運び、ソファーに座らせたあと、ふと何かに気付いたような顔をして体を少し離して、

「ねえ、前から思ってたんだけどさ、桃ちゃんは女の子だしまだまだ若いのに、やきもち妬いたりほかの女の子と会うのが嫌だって言わないの?隠してるの?ほんとうに思ってないの?」

「諦めてるの。」

首を傾げる春都の髪を指で梳かしながら、

「私がたとえば春都くんのことを本当に好きになって、好きでいようと決心したら、そしたらもう私の持ってる期待とか願望を諦めるしかないと思うの。こんなはずじゃなかったっていちいち傷ついていられないでしょ?」

「直してって、私だけ見てって言ってくれないの?」

「言われたいの?」

春都は人懐っこく笑って、いつも通りのかるさで、

「桃ちゃんにだったら。」

と言う。私もすこし呆れて笑ってしまう。ほら、安全だ。

 

「桃ちゃんのそういうところが俺のお気に入りなんだなー、可愛い女の子はすきだけど、押し付けられるのは嫌いだもん。」

私の首に手をまわしてキスをする。いつかこの子も知る時が来るだろう。行き場のない、持て余すしかなくなった感情を、誰彼構わず押し付けてしまうような、雑な愛情を。理司の愛情は生真面目過ぎるのだ。私には持ちきれない。

 

「わかったなら私たちは、おとなしくセックスだけしていましょう。」

 

17時には家に帰らないと。今は12時半。せっかくご飯を作ってくれたなら食べなきゃ。終わったあとそのまま眠ってしまわないように気をつけなきゃ。頭で逆算していると春都くんが耳元で、「桃ちゃんって、絶対早死にするタイプだよね。綺麗だし。なんか今、そう思っちゃった。」と言った。

 

 

5

月曜日。カーテンの隙間から突き刺す冬のあかるさで目が覚めた。時計に目をやると、丁度アラームの鳴る2分前だったのでそのままアラームを切る。長いこと圭吾の朝食を作り続けていたせいか、毎朝大体決まった時間に起床できる体質なのだ。身体ごと改造されてしまったみたいだなと思いながら起き上がり、ベッドの隣にある鏡台の前で軽く髪の毛を整えてリビングへ向かう。早朝の真新しい空気が家中を漂っていた。その中を歩いているとまるで私が異質みたいに感じてしまう。まるで温度の違う生き物みたいに。

 

朝食は4枚切りのトーストを一枚とスクランブルエッグ、ベーコン、サラダ。一人分しか作らないので15分もあれば支度が出来る。圭吾が降りてくるのも15分後だから丁度良い。彼は食べたらさっさと仕事にいってしまうし、朝は気が楽だ。今日も私の見送りなど必要ないと主張しているみたいに、食器を流しに置いたらそのまま玄関へと向かって行く。なので私は少し慌てるーーー素振りをしてーーー玄関先で彼を見送る。

 

「今日は雨が降ったり止んだりするみたいだから、気をつけてね。」

開けたドアの隙間からは見えた灰色の雲は、鉛のように重たく建物の上にのしかかっているように見えた。今日は例の彼女と会う日だ。寝室に戻りクローゼットの中を見渡す。

当たり障りの無い服を適当に選んで、袖を通しながら考えた。あの時わたしはどうして。

 

12時前に駅前のロータリーに行くと、もうそれらしき人物が立っていた。電話を掛けると、遠くで携帯を取り出す動作が伺える。

 

「もしもし?おはよう。今ロータリーにいるのだけど、あなたベージュのスカート履いてる?」

 

目の前にある青い車だと伝えると、ベージュのスカートを履いた人物がこちらに向かってくるのが分かった。車から出て、助手席のドアを開ける。

 

「おはよう。あなたが神崎さんね?」

「おはようございます。わざわざありがとうございます。」

「こちらこそいきなりごめんなさいね。とりあえず乗って。寒かったでしょう。」

「雨が降る前にみつけられてよかった。お願いします。」

 

見た目の割に落ち着いた声が車内に広がる。お腹は空いているかと訊くと、首を横に振ったので、駅から少し離れた喫茶店へ入った。運転中、彼女はずっと私の指を見つめていた。あの時みたいに、まつ毛の影を頬に落としながら。

混んでいるかと思った店内は、こんな天気だからか思ったよりも空いていた。窓に近い席に座ると、冬の低くて白い陽射しが眩しい。

コーヒーと紅茶を頼んで、煙草に火をつける。 彼女の形の良い目が、再び私の指を見つめていることに気付いて思わず声を掛けた。

 

「指をよく見ているのね。」

「大人の女のひとの手がすきなんです。綺麗だから。」

「そうかしら。」

「安全な感じがするの。」

「安全?」

 

触っても大丈夫な感じがするんです。男の人の手は、触るな危険だから。

消え入りそうな声で彼女は呟くので、私は少し黙り、彼女の頬に触れた。ほとんど、ほとんど衝動的と言ってもよかった。思考より先に手が伸びていたから。

 

「私の指は安全よ。この通り。」

 

頬に触れた指でそのまま頭を撫でると、彼女は少し驚いたような顔をした後、可笑しそうに笑って言った。

 

「男のひとの手とは全然ちがう。やっぱり安全だわ。」

 「そう。よかったわ。嫌ではない?」

「私はたぶん、予期せぬことに惑わされるのも好きなんです。」

 「惑わされるって。」

 

思わず笑ってしまったところでタイミングよくコーヒーと紅茶が運ばれて来る。 私たちはそれを飲んで、あとは、それでおしまいだった。帰りの車の中で診察券を返して、家の近くまで送った。

一人きりになった車の中で考える。あの時、「男の人の手は触るな危険だから」とつぶやいた時のあの顔。明らかにどこか欠落しているのに、満ち足りたような声。諦めたような、受け入れたような微笑みや私の手を安全だと言った時の目を思い出す。それと、あの時の私のほとんどの衝動。あの時私は彼女に何と言えばよかったのだろうか。あんな、初めて話す一人の女の子に向かって。

雨が大粒になって来る。次々と打ち付けてくる雨粒に私はワイパーの速度を速めた。信号を見誤らないように。

4

 

あとすこししたら理司が帰ってくるはずだ、と思いながら鍋の火を止める。

エプロンをほどいて洗濯機に放り込み、(もっとも理司が家にいるときにはものを放るようなことはしないが)、洗面所で軽く化粧を直す。
 
 
「理司くんは今までとても優しかったわ。」
 
一緒に生活を始めて、初めて殴られたとき私は泣きながら抗議した。好きな男から殴られた経験なんてなかったから。私は愛されていると思っていたから。理司は「好きだからこわいんだよ」とよく怒鳴るが、私にはあの頃その言葉が理解できなかった。
 
そして暴力が日常茶飯事になり、感情的になって理司を責めたりすることも面倒になった頃、あれは夏の夕方だった、私はあの日の色や匂いをいつも思い出すのだが、
 
「過去はずっと変わらずに綺麗なままだって思ってたけど、だから大切だったけど、もう前と同じようには見えなくなっちゃったの。」
 
と出て行こうとする理司の背中に向かって言った。
 
「たぶん、私たちの思い出はわたしたちが二人で違うものにしちゃったのね。」
 
誰もいなくなった、西日の当たるこの部屋で、私はひとりつぶやいた。
ひとりきりになると涙はすぐに止まる。私にとって涙は、悲しいときに出るものではなく、悲しんでいることを訴えるために出るものなのだ。そして時々、事務的に、例えば男の自慰みたいに、無理やり泣く。今月分の涙を棺に納めるように。そういう無駄のない涙の使い方を、私は小さな頃から知っていたような気がする。
 
二人で夕食を済ませて、桃はいま食器を洗っている。生活というのは生臭い。二人でいると、いくら洗っても取れない汚れがそこかしこにこびりついているような気がする。
 
「桃。」
 
読んでいる新聞から顔を上げずに理司は私を呼んだ。
私はシンクを軽く流して理司の隣に座る。
 
「なあに?」
私のほう、と言っても脇腹のあたりをチラッと見て、そのあと、結婚、と呟いた。
私たちは結婚するつもりでいた。少なくとも理司はそのつもりでいた。でも、それを考えているタイミングで理司の母親が体調を悪くして、いまも入院している。私のほうは両親が離婚していて、母親は「あまり遠くで結婚しないでほしいわ」と言うので、双方が行き詰まったままなのだ。
 
「理司くんのお母さまが安定しないままでは、決められないんじゃないの?」
「あんな母親どうでもいいんだよ、親父ががたがた言ってるだけで。待ってたらいつまでも結婚できないだろ。」
 
それはそうだけど、と思って黙っていると、理司は持っていた新聞を乱暴に床に放り、「俺は桃と結婚したいんだよ。桃はちがうの?」と言いながらつよい力で肩を掴んだ。
「ちがわないわ。」
「だったらなんで。」
間髪入れずに理司が私を責める。
「桃を見てても、僕のことがすきで、だから結婚したいって、そういう熱意みたいなものが伝わってこないんだよ。」
熱意などという大それたものを持って生きていたことなど私にはなかった。傷つくことも、間違うことも、生きている以上避けられない、いくら熱意があっても、流れには逆らえない。
「ごめんなさい。」
というと理司は私の脚を蹴って自室に入っていった。
理司に対して、やり返したり復讐したりしたいという気持ちは全く芽生えない。蹴られたあとに私を見つめる理司の顔を見ると、申し訳なくなるのは何故か私なのだ。きっと私は手こそ上げないものの、言葉とか、表情とか、現象とか、そういうもので少しずつ理司を殴っているのだろう。テーブルに飾ってある冷たい色の花や、洗剤の匂いのシーツが、理司を傷つけているのはどこかでわかっていた。私のほうがひどいのかもしれない。だって。理司が言うには理司のそれは、愛情なんだもの。
体には体で、愛には愛でやり返さなければフェアじゃない。殴り合えたらきっと私たちはもうすこし楽になれるのに。それができない。
 
 
帰ってきてからずっと電源をオフにしていた携帯電話を開くと、登録していない番号から何件か着信があった。
不審に思いながらも掛け直す。
 
「もしもし。」
女の人の声。私より年齢は少し上だろう。日が沈んだあとの空みたいな声だ、と思った。物悲しい。
「…もしもし…?あの、先程何度もお電話いただいたのですが。ごめんなさい、電源を切っていて。」
「こちらこそ。突然ごめんなさいね。私、山本病院附属の薬局の者です。あなたの診察券を帰り道に拾ったものだから。」
「…ごめんなさい、気づかなかったです。ありがとうございました。明日にでも、薬局に受け取りに行ってもいいですか?」
携帯電話を取り出すときだろうか。バッグを肩にかけ直したときだろうか。注意深く生きているつもりなのにな、と思うと情けなかった。
「そうじゃなくって、 」
「え?」
「どこかでお茶でも出来たらとおもうんだけれど。住所がうしろに書いてあったから分かるんだけど、あなたうちの薬局からは少し遠いところに住んでるわよね。私もそっちのほうに家があるの。だから。」
「すみません、お手数おかけしてしまって。私は、土曜と日曜以外は特に何もないです。」
「そう。そしたら、月曜日はどうかしら。最寄りの駅まで迎えに行くわ。」
 
 
 
あいかわかおる、と名乗るその薬局の女と、私は会うことになった。いたずらではないかとバッグを確認すると、診察券はきちんとなくなっていた。
かおるってどんな字を書くんだろう。私が指に見とれたあの人かしら。
 
 
そして不思議なことに、私はなぜこのことを一言も、理司に言えないんだろう。
 
 

3

「お客様がお掛けになった電話番号は、電波が届かない場所にあるか、電源が入っていないため、掛かりません」

 

軽いため息をついて、手に持った診察券を手帳に挟む。拾わなくても良かったかもしれないと思いながら。

仕事が終わってから駐車場に向かうまでの間に拾ったそれは間違いなくあの時うちに薬をもらいにきた人物の名前だったものだから、そのままその場に落としておくのも気が引けてしまったのだ。触れてしまったから。一度手に取ってしまったものを、少なくとも自分から手放すことは出来ない。たとえばそれが、がらくただったとしても、あるべきところに返すか、持ち続けなければならないと思ってしまう。

この診察券は、あるべきところに返すものだ。また後で掛け直そう。そう思い携帯をキッチンのカウンターに置いて冷蔵庫の中から緑色の壜を取り出す。待ち受け画面の時計は、水曜日の17:00を指すところだ。もうすぐ圭吾が帰って来るから夕飯の支度をしなければいけない。

薄いグラスになみなみと炭酸水を注ぎ、一口飲んで捨てた。 もう炭酸はほとんどはいっていなかった。丁度私たちの愛みたいに、情けない後味だけが残る。

 

なのに、今日も私と圭吾は完璧だった。

 

決まった時間に帰って来る圭吾を出迎えて、彼が着替えてテーブルに着く頃には夕飯の支度は整っている。「今日はどうだったの?」「うん、普通だよ。」「そう。」 にこやかに交わされる無感情の会話の後ろで、流しっぱなしのクラシックが聴こえる。ラストシーンみたいな曲だ。圭吾はどうしてかこういう曲ばかりを好んでいる。それでも、かんぺきだと思えた。少なくとも、他の人からしたらかんぺきだろう。私が変なことを口走らない限り、私たち夫婦は「欠点がまったくない」のだ。

 

「そう言えば、今日指輪を落としたのよ」

 

わざと思い出したように口を開き、ほら、と左手の甲を見せる。指輪についたダイヤは重さで手のひらの方へと回ってしまっていて見えなくなっていた。

 

「サイズが合わなくなっちゃったみたいで、不恰好でしょう。」

「ああ」

 

そんなにみっともないもの外してしまえば。

小さく切った肉の欠片を口にしながら圭吾は呟いた。想像したよりも、ずっと軽い声で。「みっともないって」。みっともないって、そんな、ひどいなぁもう。指輪なんて、幾らでもサイズの直しが出来るよとか、いつのまにかそんなに痩せちゃったんだねとか、俺なんか逆にきつくなっちゃったよとか、もう結婚して七年も経ったんだねとか、最近忙しくてなかなか一緒に出掛けられなくてごめんねとか、そういえば薫髪の毛切ったよねとか、 ねえ、「そうね、外してしまってもいいかもしれないわ。」

 

圭吾と同じくらいの声の質量でそう答える。なんの棘もない、丸い声。完璧なトーン。名演技と言っても過言ではないかもしれない。

予想していた返答と予想していた自分の感情と、それを覆す私の返答は完璧そのものだ。私は自分の傷口を抉り広げることが好きだ。私は何度もこういうことを繰り返す。傷つき続ける方が安心だから。

愛のない永遠。傷つき続けるほうが安心な地獄。圭吾は、私から離れていくことを許してくれなければ、自分から離れていくこともしなかった。私は捨ててもられることを待っている。または決定的瞬間に居合わせられることを望んでいる。それが無い限りは捨てられないし持ち続けなければならないのだ。それに、彼も自分からは手放せないのかもしれない。そうと思うと憐れみで目が綻ぶ。そういう愛情なのかしら。かわいそうな人。

私は微笑み、圭吾の方へと歩み寄る。

 

「圭吾」

「愛してるわ。おやすみなさい。」 

 

圭吾は何も言わなかった。もうクラシックは聴こえてこない。

 

一人部屋の寝室に入るとタイミングで携帯が震えた。番号を見ると、夕方に私から掛けた番号だった。丁寧に折り返してもらえるとは、と驚きながら手にコーヒーを持ちベランダに出る。12月間近の突き刺すような寒さが頬を掠めた。

コーヒーの湯気が暗闇に溶けていく。

 

「はい、相川です。」

「…もしもし…?」

 

声の色は喩えるとダスティローズ。

頭の端で、あの時見た腕の鮮やかさを思い出していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

2

「では、飲み薬と痛み止めを処方しておきますので、一週間経っても良くならないようでしたらまた。」

「はい。あの先生、私旅行を控えているので、少し多めにお薬を出していただけますか?」

「わかりました。無理なさらないようにしてください。」

「ありがとうございます。」

 

病院は清潔だ、と桃は思う。消毒のにおいとカーテンの薄緑。私は美しいものと清潔なものが好きだ。美しいものは大抵、人の手垢でべたべたに汚されていて、だからこそ美しいのだが、私はその反対側で清潔を愛している。正しさや優しさや愛情は、度を越えるとときどき恐ろしいのだが、清潔過ぎて困ることは何もない。こういう場所は安全だ。お医者様や看護婦は丁寧だし、お仕事の範囲内で私に優しい。そしてあのひとたちは私を愛してはいないだろう。さらさらと冷たいこのカーテンが私を愛していないように。だから病院はとても安全なところ。

安全、危険や災害によって「そこなわれる」恐れがない安らかな状態。

今日私がついた嘘も安全だっただろうか。「階段から落ちてしまって、その時にぶつけたみたいなんです。」「私旅行を控えていて、」。

今日ここへ来てお医者様に嘘なんてつかなくちゃならなかったのは、「恐るべき度を越えた愛情」のせいだった。でも、少なくとも愛情として与えられた痛みならば、と私はいつも考える。愛情として享受するしかなす術はないわ。

 

「神崎さん、神崎桃さん。」

「はい。」

 

立ち上がるとやっぱり傷は痛んだが、体の外にできる傷は見てわかるし、人にもすぐわかって貰えるから楽ちんだと思う。それに比べて心はなんてわかりにくいのだろう。どうして手の施しようもないところがいつまでも炎症を起こすのだろう。昨晩も理司は、私の言うことが何一つわからなかったようだ。

「憎んでるんだろ、俺のこと。」

寝室のベッドで私のほうを見ないままそう言ったので、私は最初その言葉が誰に向けられたものなのかわからなかった。

「そうね。でも、愛してるんだとも思うわ。」

私にもよくわからないけど、という言葉は辛うじて飲み込む。

「そんなわけないだろ。」

「そんなわけなくないと思う。」

「男に殴られてたのしいか?」

この男はときどき私に手を出す。目を見てきちんと話し合うことすらままならないというのに。違う、話し合うことがこわいから殴るのだということを、私はこの男から学んだ。

「楽しくないわ。でも、憎むって愛していなきゃできないもの。」

優しく肩に触れながら答えるが、理司はもう返事をしない。

「そういうことをたとえあなたがわからなくても、私はそう思ってるの。だから安心して。」

私の口から放たれた言葉は行き場もなく宙を漂って、暗くて冷たい部屋の中で見えなくなっていった。理司は一度もこっちを見なかった。

 

代金を払い、処方箋を頂いて病院の隣にある薬局に入る。こういう薬局は、どこもそうなのか日当たりが良くてあかるい。処方箋を渡して、安いチョコレートみたいな色の長椅子に座り、携帯電話の電源を入れる。届いていたメールを確認しようとしたとき、名前を呼ばれた。メールの差出人は見当がつく。理司は電話しかかけてこないから。

「こちらのお薬は朝と夜に、痛み止めは傷が痛んだ時に服用してください。」

用法容量を指さしている細い指。大人の女のひとの手は美しい。「触っても危なくありません」、と心の中で呟く。大人の男の人の手は間違いなく、「触るな危険」だ、と思ったらすこし微笑んでしまった。

お会計を済ませて外に出ると冷たい風が吹いていた。さっき出てきた薬局から、女のひとたちの声がする。冬のにおい。もうすぐ十二月になる。寒さなんて感じないみたいな顔をして笑っている子供たちとすれ違う。「桃ちゃん。会いたいよ。空いてる日、連絡ください。」というメールを確認して、「水曜日にしましょう。いつもの時間に」と返信をする。そのあと、2件のメールを削除する。送られてきたものと、送ったものを。

 

私は近頃、嘘ばかりついている。

 

           

1


総合病院の隣にあるここは、西日がよく入り、時折ひどく眩しい。

いつだか夫が、「広くて綺麗なのに居心地が悪い」ーーーこの言葉は私が夫に対してもよく思うことなのだがーーーと言っていたけれど、その通りだと思う。全てを白で整えたこの部屋と、薬局特有の余所余所しさや、病人しかいない雰囲気は未だに違和感がある。わたしは至って健康だからだ。

 

  指輪をつけるのを忘れてきたことに気付いたのは、仕事の休憩中の時のことだった。枯れ枝のような左手の薬指を見つめながらぼんやりと記憶を辿れば、朝、洗面台に置いたような気がしてくるが どうだっただろう、と思いながら空になった弁当箱ーーーパートのおばさんからハワイ旅行のお土産でもらった、見るからに甘そうなチョコレートも一緒にーーーをしまい休憩室から出た。 

  昔、「結婚指輪を左手の薬指にはめるのは、薬指の下には心臓に繋がる血管が通っているから」だと、聞いたことがあった。大学の頃の、所謂合コンだとかデートだとか、そういった浮ついた話が好きな女の子たちから聞いたはずたったけれど、顔は思い出せない。心臓に繋がる血管が通っている指に指輪をはめたところで何になるというのだろうと当時思っていた。その考えは結婚して、「心臓に繋がる血管が通っている指」に指輪をはめてもらった今でも変わらなかった。指輪なんてただのマークみたいなものだ。そこに精神的な繋がりは無い。そんなもので心臓を縛り愛が誓えるのなら、と考える。もしそんなことが出来たら私たちの間にもまだ愛はあるはずなのに。

そして愛が消えて永遠だけが残ったところで そんなものはもうただの

 

 「地獄よねぇ」

「え?」

「テレビよテレビ。あのタレント夫婦。修羅場目撃で離婚ですって。」

 

   指差す方に顔を向ける。受付から見える待合スペースのテレビを見ると、ワイドショーが有名人の不倫騒動を取り上げていた。帰って来るタイミングが悪かったのねと薬剤師の女が言うので、そうですねと返した。どうでもいい。他人の不倫や浮気の話なんて。

いっそのこと、不倫でもなんでもしてくれていた方が私はよかった。あのタレントだって、わざとタイミングを悪くしたのかもしれない。永遠を捨てる為に。
愛がなくなって、ただの永遠が残った生活なんてただの地獄なのだから。

 

「ま、相川さんのとこの旦那さんはこんな美人がいたら不倫しようなんて思わないだろうし安心ね。はい、この人お願いね。」

 調合の終わった薬を私に渡しながら、悪気の欠片も見当たらない笑顔でそう言う。私は笑うしかなかった。安心。「気掛かりなことがなく、落ち着き安んじること」。私からしたら、あのテレビの中で取り上げられている修羅場の方がよほど安心だと思うと、笑いたい気持ちになった。

お薬手帳の名前を確認する。

「神崎さん。神崎桃さん。」 

  立ち上がってやってきたのは若い女性だった。「今回の料金は3500円ですね。」と言うと、恐ろしいほど白い指が財布の中から5000円を出す。コートが捲れて、痣だらけの手首が露わになっていた。痛み止めが多いのはこのせいだろうな。青、緑、紫。花みたいだと思いながらおつりを渡して、用法容量の説明をする。こちらは食後に二錠。胃を傷つけがちになりますから、空腹時はなるべく避けてくださいね。こちらのお薬は朝と夜に、痛み止めは傷が痛んだ時に服用してください。彼女はひたすら私の指を見ていて、私はそんな彼女の顔を見ていた。顔はひどく疲れているのに、化粧は丁寧にしていて、若くて綺麗な人だと思った。マスカラであげた睫毛が頬に影を落としている。

  痣は、男からだろうなとなんとなく思いながら見送ると、奥から薬剤師の女が驚いたような顔をして出てきて、私の手のひらに指輪を乗せた。ダイヤモンドの乗った、細いシルバーの指輪は間違いなく私のものだった。

 

「落としちゃダメでしょー、あー驚いた。」

「やだ、どこにありました?」

「デスクの下よ。キラキラしてるから何かと思ったら。」

「すみません。ずっとつけている気でいたのになぁ。」

 

滑らかに嘘をついて指輪をはめる。

いつのまにかサイズが合わなくなったそれは、ダイヤモンドが私の薬指のまわりをくるくると回って不恰好だった。思わず笑ってしまう。なんてみっともない。いつの間にか私の指がやせ細ってしまったことも、どこに忘れたのか思いだせなかったことも、嘘をつくことも忘れていたのではなくて落としていたことも、全てがみっともない。

 

「結婚指輪を左手の薬指にはめるのは、薬指の下に心臓に繋がる血管が通っているからなんだって」

顔も思い出せない同級生の言葉を思い出す。

 

西日が眩しい。時計の針は、もうすぐ15時30分を指そうとしていた。